昭和45年10月9日  朝の御理解


X御理解第94節
信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬぞ。信心の篤いのが真の信者じゃ。


 真の信者じゃ真の信者を、真の人を育てさせて頂く御用が私は、取次者の御用だと思う。真の信心をさせるのが取次者の御用だと思う。
 折角真の信心を目指して信心をはじめせて頂こうと思うおるのに取次者が真の信心の邪魔をするようなこともあろうと、こう思う。
 これは二十年も前に、引き揚げて帰った当初、聞かせて頂いた話ですけれども、これは久留米の近くの教会での出来事なんですけれどね。
 御信者さんが満州に行っておった。非常に都合がよかった。それでずっと月々まとまった金銭のお供えが出来ておった。そこの先生は非常に人情の厚いというか、そういう方だったらしいのです。
 ですからその送ってくる御信者のお初穂を無いものとして、その信者の名前で銀行に預金しておった。
  それで引き揚げて帰って見えた時に、その金を商売の元にでもするようにというて出して信者に返された。
 ところが折角の先生の思いとは裏腹に、それで折角の商売が失敗してしもうた。失敗してしもうたら信心までも止めてしもうたという話を聞いたことがある。
 なかなか云うなら人情話かで聞くなら、何とも云えんよいお話なんですけれどもね。先生が信者のことを思うて仕送りでお初穂でも出来るという時に、先生がその人の為にその人の名前でお金を預けてあげた。それが云わば役に立ったのである。
 成る程戦争が済んだ、引き揚げて帰ってきた。その時それを出した。それこそ随喜の涙を流して、先生の親切にです、感謝をしたことであろうとこう思う。
 ところが実際は反対なんです。その金で失敗をした同時に信心まで無くしてしまったというのである。
 金光様の御信心、例えば、ここには信者に不同の扱いをすな、物を余計に持って来ると、それを大切にするような事ではならぬと、してみるとこれは金光様の信心ばっかりはもう絶対人間心では、おかげにならん事が分かりますね。
 だからこれからはたとえば、94節はこれは取次者に対する御理解でしょうけれども、そこまでお話を聞いてもらうと、この意味が分かると思う。
 だからこの94節を信者も先生も頂くという立場で頂くと、いわゆるいかに金光様の御信心が人情とか、人間心ではいけないか。いやそれでは金光様の信心をしたおって人情やら、人間心の強い人だったら、教会であるなら換えってご非礼が立たんであろう。信者であるなら、かえっておかげが受けられないだろうという事になるのです。
 いわゆる信心の篤いのが真の信者じゃ、とこう最後に結んでありますけれども、お互いは手厚い信心をさせて頂きたいと思う。いうなら行き届いた実意丁寧な信心をさせて頂きたいと思う。真の道も分かりたい、真の信者にもなりたいと思う、これは教師信者を問わず、やはりそこのところの願いというものは、いつも持たなければならない。
 実意丁寧、手篤い行き届いた信心、いわゆる真の道を分からせてもらい、真の信心を目指して頂きたいと思う。そこにいわゆる真の、云わばおかげは期せずして頂けるという事になる。
 なかなか、人それぞれの性格がございましてね、ぼんやりしている人もあれば、気が利いた人もある。ぼんやりした人はだから気がつかんならんところにでも気がつかん。気がつく人はもうそれこそ向こうの向こうまで、細かい心、神経を使う事が出来る。
 けれどもね、それは信心には関わりがないこと、おかげを頂くという事には関わりが無いこと。問題は信心によってお互いが適当な、いうならおかげの受けられる心を頂く事に努力する事なのですから、信心とは。
 だから性格がよいから、おかげを頂くという事じゃない。いわゆる神様は平等におかげを下さってあるという訳です。誰でもおかげの受けられるいうなら素質というのはみんなに与えてある、それをそれと気付かせて頂く。
 昨日末永さんとここで話させて頂いたことでした。皆さんもご承知のように、とにかく子供の時からやっぱりいわゆる気が利いておる、だから近所の店屋のおじさんが、あんたどうでんこうでん、商売人にならんかと、私のところに手伝いに来てくれんかと、子供の時にいわれた事があったと言っております。成る程、商売人にはよかろうと、こう思う。よう気がつきます。気が利いている。
 ところがね、そんなら今、末永さんが精進しておることはです、それが非常に自分がおかげ頂いていくことに、それが邪魔になっておる事に、気が付きだしたと。
 という事は、どういう事かというとね、結局人間心ではいけんと、いよいよやはり神心を目指さなければいけないという事。
 ですから、神心を目指すという事は、非常に気が利いとるとか、ぼんやりしているという事とかかわりがない。いわゆる信心とは、その神心、信心とは我が心が神に向かうのを信心というのじゃとおっしゃるのですから、そこを焦点に頂いてさえ行けばいいのである。
 ぼんやりしておっても、気が利きすぎておっても、神心から発するもの、神心から出てくるもの。
 昨日御祈念が、お届けが終わってみんなが帰った後にお初穂をお届け帳に書かせて頂きながら、しきりに北九州に行っておる野口さんの娘婿の町田さんのことを思うのです。月に一回か二回かお参りが出来るんですがね。
 丁度ついたて所で、二、三人お参りがあっておる中で、一人一生懸命御祈念しとる人がある。ここから見るとですね、顔が見えんです。誰やら、誰が来たのか誰か青年が参ってきておるなあという位。
 そしたらなんと、それが町田さんじゃった。ここで座りながら、「いやぁ、今あんたが事を一生懸命、私は思いよったつよ。あんたが事を一生懸命、私は思いよったつよ。」ともうこれがね、お取次の働きとでもいうのでしょうか。町田さんとしては、それが大変な感動であった。
 月に一回か二回、やはり信心を離れておりますと、心がやっぱり目が粗うなる。お参りをしてくると何かお参りをさせて頂いてよかったと、何か分からせてもろうたり、心に感動が起こったりして、それが十五日になり、一月になりの又、自分の生き調子の上にです、信心生活の上にそれを云わば基礎土台に。・・・
 昨日の御理解だから、それだけだった。町田さんも感激しとるなら、私も又、感激しとる。それだけの事。「いやぁ、久しぶりに帰ってきたね。さあお茶なっとん飲まんね」という事もない。
 かと云うて、そんなら場合にはです。久しぶりじゃったね、ひと月のお話も聞かしてもらいたい。お茶ども頂きながら聞こうかということもある。
 だからそのどちらもがです。私の人情を離れた、例えばそれがお取次であった場合、よいお取次が出来たことになり、問題はその人の心の中にどれ程、私の思いが入っていくかということである。
 私の思いということは、そのまま金光大神の思いである。私の思いが例えば、そこに入ったとすると、それはいうなら、不動の扱いをしたことになるだろうと思う。
 いわゆる金光大神の思い、いうならば、神心、そんなら、私が毎日町田さんの事を思い出す訳でもない。けれどもそんなら、吾を空しゅうして、御用させて頂いておる時にです、神様は私の心の中に、町田、町田と町田さんの事を思い出させて下さる。間髪を入れずにそこに参ってきておる。いやぁ。私は今、あんたが事をしきりに思いよったつよと。それだけなんです。
 それで北九州からわざわざお参りして又お参りしてきてよかったとこう思う。
 それとは反対に、そんなら私がお茶でも頂きながら、お話を聞こうかと、久しぶりに参ってきたから、お茶でも出そうかと、その時の雰囲気がね、そうであるならば、そうすることもある。
 だから、それで又、有り難いものを頂いていけば、それでよい。たとえ一人の上にでもそのような事がある。北九から州わざわざ参って来とるのに、ただ別に御理解する訳でもなかなければ、それだけ、わざわざ参ってきたから、お茶でもあげようかというような雰囲気の時もあるけれどもです。どちらも同じであるならば、これは不同の扱いをしたことにならないと、私は信じております。
 だから問題はですね、どういう事になるかというと、そんならお互いがここにお参りをしにみえれる一人一人がです、お参りをするからには、何かを頂いて帰らなければならないという願い。そういう意欲のもとにお参りが出来、信心が出来そういう思いがお茶になったり、又はあんたの事をしきりに思いよったつよと、いったような働きがお取次者の上にある訳です。
 この前はお茶を呼ばれたけれども、今度はお茶も頂かじゃった。と、いうような思いを、しもすまいけれども、お茶はお茶を頂きながら有り難いものを頂いて帰る。お茶は頂かなくても有り難い。ここのところはもういつも平等である。
 そういう心が私は神心だと思う。お互いがやはり、真の信心を願わしてもらい、いうなら手篤い信心をさしてもらいたい、そして、真の道を分かりたい、真の信者にもなりたい、そういう私は心がけをもっておかんとです、なんというのでしょうかね、親先生が人間心を使いござるとか、親先生が不同の扱いをしなさるかといったような心までなりかねない。
 問題は不同の扱いをするという事も、さることながら、不同の扱いをされておると思う心が、既に間違いである。
 これは例えばそんなら、そこにみすみす不同の扱いをされておるように見えても、これは神様の御都合に違いはないと、頂く所に道は開けてくる。
 先生にも不同の扱いをすなとおっしゃるが、信者の方でもここんところをですね、不同の扱いをされておるのではない神様の御都合として、頂けれる私は信心が要求されてくると。
 一歩間違えて、いわゆる人間心だけがそのような形になる時に、もううちの先生は、出来、不出来がある、うちの先生はもう気分やさんだ、自分の都合のよか時には、さあお茶飲んでいけ、お菓子食べろと言いなさるけれども、もう自分の気にいらん時どんお参りすると、もう剣もほろろであると言うような、いうなら頂き方をするとするなら、いわゆる先生もおかげ頂かれんじゃろうが、信者もおかげ頂かれん。
 もし、よしそんなら、私なんかどっちかというと気分屋ですから、そういう時もあるかもしれん、そういう時に例えば、お取次を願う方の側である信者の方がです、今日は神様がご機嫌が悪いな、今日は神様が、ご機嫌だなというような頂き方。 そういう頂き方が出来れるおかげを頂きたい。
 私共、御本部参拝をさせて頂きますとね、ハッキリしておったのは、月参りをしておった時分に、三代金光様のお取次を頂く。もうこわいような顔をしてお取次をなさる事がある。もう身が縮むような思いがする。
 前の人まで言うなら、にこにことして、お取次をしよんなさるから、はあ今日は金光様はご機嫌がおよろしいなあ、とこう思うた。自分の番になって出てみると、もう途端に引き締まられたようになられて、こわいような顔をなさる事があった。
 金光様はいうなら、気分屋さんだろうかと、決してそうではない。もうそのままを神様のお姿だと、私共は頂きよった。問題はそういう頂き方なんです。
 もうこれは少し余談ですけれども、もう私共がお参りをさせて頂いて、にこにことして、お取次を頂いた事はまずなかったですね、もう前の人の時には、高声を上げて、笑ってお取次をなさっておられるような事があった。金光様はご機嫌がいいなぁと思いよる。
 今度はこちらがお取り次ぎさせて頂くと、もう一辺に引き締まってこわいような顔をしながら、もう初めの間は、私はそれがこちらにお粗末をしながら、もう初めの間は、私はそれがこちらにお粗末御無礼があったんだ、何か神様の気感に適わんような事があったんだろうと、猛反省させてもらいますますよね、折角お参りさせて頂くんですから。
 云わば例えば修行中である、稽古中である、いうならば、弟子が参って来た時にです、信心を本当に頂きたい、教えを頂きたいという信者が参って来た時にです、そんなに師匠がいつも甘い顔を持ってです、弟子に接するだろうか。
 ギリギリのものを、教えてやりたいと思うておられる師匠が、にこにこしながら教えるだろうか、私はそういう風に気付かせて頂いて、これは金光様が私にとりわけ特別なものを教えて下さろうとしておるなという風に頂いた。
 ここでもどうでしょうか、例えばそう言うような頂き方をされるところにです、いよいよ真の道、手篤い信心がそこから出来てくるように思います。
 勿論、これは人情というかね、人間心をはずれての事であります。ここでは段々皆さんがおかげ頂かれて、今日は先生は機嫌がええとか、機嫌悪いとかというような風に思うたようなものをです。とにかく、取次者の云わば顔色をうかがって、今日はうかつな事どん言いよると怒られるぞ、というようなものを感じられる。そしてそこから引き締まった思いでお取次を願わせてもらう、そこからおかげの道が受けられる、開かれてきておるように段々思う。
 形の上に於いては、不同の扱いをしておるようであっても、それを頂く方の側から、それを神意だとし、神様の御都合だと、頂かせてもらう。私は信心の稽古が必要、勿論私と致しましてもです、人間心を云わばはずれてのお取次でなからねばならん。
 昨日公子さんがこんなおしらせを頂いたという、何か、こう広い例えていうとここのお広前から、一歩も外へ出られんといった感じ、出ろうと思うてもどうしても出られんという感じ。
 それを丁度高橋さんがみえて、そんなに出たいんなら、ここから出なさい云うてから、向こうの方から、押し開けるようにして、そこから出らして頂いた。やれやれ出た思うたところが、外には鉄条網が又、張り巡らしてあるという事であった。 どう言うような事だろうかと、それからいろいろ感じさせて頂くことがある。
 もうここで修行させて頂いて東京から帰って何年になるでしょうか、それこそ百円のお小遣いを頂くわけでもなからなければ、給料もらうわけでもない。それかと云うて、そんなら着物をつくってもらう訳でもなからなければ、帯一本つくってもらう訳でもない。
 やはり娘盛りをいうなら、こういう窮屈な、しかも忙しい所で修行させて頂くというその修行精神、今日まで続いておるけれども、たまには、やはりね、他の年頃の娘さんらしい。いわば華やかな所にも出たいだろう、生活もしたいだろう、場合には、お小遣いも欲しいだろう。
 そう言うような思いをせん事もなかろうけれども、神様は何かしらん、公子さんの周囲に十重、二十重に出られないようにしてある。高橋さんがおられたから私が夢の中に出てきたという事でどげなことじゃろかと言うておられましたが。
 まあそれは高橋定利という、高橋というのは高度な云わばお取次という事であろう。これはひとつの定利、定まった神様の約束事であろう。ここで修行しなければならない程しの私であるという公子さん自体が自覚しなければならない。
 そこで公子さんが思わなければならないことはね、もし私が神様をはずれたら、どういう自分になるだろうか、どういう自分であるだろうか、という事を思わせて頂いたら答えが出るだろうと云うております。
 もしお互い合楽で御縁を頂いてなかったら、もしここで修行させて頂く事を許されてなかったら、どういう風な運命が展開して、勿論よいほうにではなかろう。どこまで、云わば転落したやら、おかげを落としていくやら分からない。
 たまにはそうした人情、人間心も起こるけれども、神様は十重、二十重にです、云わば公子さんをつないでござる。
 そこでつながれておる私、たまには人間心を起こることもあろうけれどもです、神様が不同の扱いをなさっておられるというのではなくです、公子さんとしてはとりわけ神様のいうならご寵愛を受けておるんだと。とりわけ神様のお働きを受けさせて頂いておるという事に、感謝の思いをいよいよ強うしていかなければならないと思います。
 皆さんの場合でも同じ事、不同の扱いというようなものを感じる時には人間心、神様がこのようにしてお育て下さるという思いをする時が神心。
 取り次ぐ者も、取り次がれる者もやはり神心を目指しての信心、そこから、いわゆる手篤い信心も真の信者になる事も出来れる道も開けてくるとこう思います。
 金光様の御信心はもう実にデリケートである。本当に人情を持ってしたら、とてもよかりそうにあるのだけれども、人情では人は助からん。又自分自身も助からん、どこまでも神心を目指さなければならん。
 信者のために例えばお金を貯めておられた先生が、かえって信者を滅ぼされたというような、云わば立ち上がりが出来ないように、信心までもなくしてしまうような事に結果がなった。
 それは先生が悪いからではない。只、神情ではなくて、人情を使われたからだと。 ですからどこまでも金光様の御信心すら、人情から神情への思いが出来れるおかげを頂かせてもろうて、そこから私はね、とりわけ人間関係なんかというもののスムーズさというものが出てくる。
 人情を使っていかにも人間関係が具合よういくように思うとるけれども、それは上辺だけのものであって、本当の素晴らしい人間関係は生まれてこない。
 結局、真心、いわゆる神情である。神情からしかよい人間関係は生まれてこない、勿論おかげも生まれてこないと思うですね。         どうぞ